2008年09月15日

京都の町づくりは明治から

京都の町づくりは明治から
ウルルンが終わってしまった。来年から、自分がウルルンの旅に!歴史は自分の中に。ラオスはタイ語と似ているので大丈夫。今日は身近な歴史の話。
休みの日に京都市内を散歩して思うことは、道路が碁盤の目であることと、市内の東西南北のまちづくりの特徴がはっきりしていること。御所を中心に、東は古いお寺を中心に自然が残り、西は寺社・住宅が渾然としており、南は工場が多く、北は大学が多数。そこで、今日は、現在の京都をプランニングした明治時代の公共事業。

<明治維新と東京遷都>
明治3年の京都の人口は約33万人。東京遷都で明治7年に22万人と10万人以上も減少。そこで何とか京都の凋落を食い止めようと出てきた案が「滋賀咲く」ではなくて「京都策」(京都近代化政策)。目的は「ボケ防止」ではなく「奈良化防止」。
東京遷都の代わりにもらった手切れ金でインフラ整備を開始。
明治2年から小学校の開設、明治14年から琵琶湖疏水の建設(発電所、蹴上浄水場ともに現役で仕事をしています)、市電路線の築造など。

<内貴甚三郎>
明治の初めは京都府知事が市長を兼ねていましたが、明治31年、最初の民選市長として選出されたのが内貴甚三郎。この市長が「将来、100万人以上の大都会 京都」への布石を打ったのです。これまでは工業都市へ向けての整備でしたが、歴史都市の概念を示して都市計画に加えています。
東方は風致保存の必要あり」として東山一帯は保全されることになり、現在でも京都らしさが残る地区となっています。これが毎年5,000万人近く観光客を集める原動力になっています。同時に北は現状のまま、北西は文教地区、西は開発、南は工業地区として、地域の用途を定めています。この基本的な考えによって現在の京都市の骨格が出来上がっています。

<明治時代も京都です>
京都は「平安のみやび」なんて言われますが、実は明治時代に建造されたものが多い。建築物では同志社大学にどっさり。京大、平安女学院、聖母女学院にもあります。三条通は京都文化博物館(旧日銀京都支店)、中央郵便局など多数。これらは現役でお仕事中。
私たちが遊びに行く寺町通の隣の「新京極」は明治5年に開通した道路、旧公家町を整理して作られた「京都御苑」(御所)、枝垂れ桜で有名な「円山公園」も同じ時代。「平安神宮」は平安遷都1100年を記念して建てられたものです。
時代のニーズに答えながら補修や改修を繰り返し、地域に定着するインフラ整備。明治時代の公共投資は成功しているようですが、現代の公共投資の結果はどうでしょうか?
これとは関係なく、今週は会社でも新しいウルルンがありますよ。私はウルルンの味方です。


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Posted by 西日本技術の環境調査員 at 07:28 │Comments( 0 ) 京都
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