2008年12月14日

大石内蔵助の素顔

大石内蔵助の素顔


今は忘年会シーズン。夜の祇園にお出かけの方はたくさんいるでしょう。昨日、朝の散歩は祇園・木屋町を中心に徘徊。カラスがゴミ袋をかき回す風景はいつもと同じですが、やはりお酒のシーズン。ゴミの量が多い。
清水寺にもちょっと立ち寄り、駐車場に読売テレビのロケ車。紅葉シーズンは終わっているのに、何の特集?
新聞配達の時間は過ぎているのですが、「黒服さん」の帰宅の時間とも重なり、祇園・木屋町は無人ではありません。また、花見小路では場外馬券売り場関係のガードマン。
今日は12月14日。赤穂浪士の討ち入りの日です(本当は旧暦の12月14日)。血生臭い話はやめて、大石内蔵助の遊びの話をしましょう。

<祇園一力亭>
大石内蔵助が遊びに来ていた祇園でも最も格式の高いお茶屋さん(写真)。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の七段目に、大石内蔵助が敵の目を欺くために放蕩した茶屋として一力亭が出てきます。常連さんに見せてもらった毎月1回開かれるお座敷の名簿には、京都政財界の重鎮の名前がずらり並んでいました。
内蔵助さんが住んでいた山科の岩尾寺から歩いてくると1時間以上はかかります。伏見の撞木町(しゅもくまち)から来るにも徒歩1時間、山科から遊びに行くのも大変。足腰鍛えて遊びに行きましょう。
昼間は舞妓さんの写真を撮るため、アマチュアカメラマンや外人が多数待ちうけているときがあります。

大石内蔵助の素顔

<一力亭の表札>
一力亭には立派な「杉浦治郎右衛門」と書かれた表札がかかっています。一力亭の常連さんの話では、1869年(明治2年)、祇園弥栄の小学校が発足した時の初代校長先生で一力亭の9代目当主。
この写真には「表札」そのものがありません。なぜか?盗まれるから、お店の営業が終わるとき中に入れてしまいます。
早朝ですから、表札をかける釘が2本しか写っていません。レア物の写真です。普通は立派な表札を見ることができますよ!
杉浦治郎右衛門の名前を覚えても試験には出ませんね。

<大石内蔵助はどう呼ばれていたか?>
現在的に考えると高級フーゾク店ですから、お客さんも源氏名で呼ばれます。大石内蔵助は「うきさま」「うきだいじんさま」。なお、山科時代は池田久衛門と名乗っていました。
ちなみに一般の人たちは、大石内蔵助が討ち入りをせずに京都で遊んでいたときは、赤穂の浪人ではなく「あほう浪人」と呼んでいました。

<内蔵助が本当に遊んでいたのは?>
大石内蔵助が遊んでいたのは祇園と伏見の撞木町の説があります。このブログは徘徊ブログですから、この論争に決着をつけましょう。
祇園も撞木町も山科岩尾寺から歩いて1時間と少し。(やや距離は撞木町が近いのですが、歩道がないので歩きにくい)したがって、「山科から祇園までは遠すぎる」だけでは説明がつきません。
文化・文政時代の祇園には300軒の茶屋があった場所といわれていますから、それよりも古い元禄時代から祇園ブランドはあったと考えられます。その中でも一流店の一力亭ですから、そこで遊ぶためには相当のお金が必要です。当時、大石内蔵助は浪人中ですから。そのため、遠いからではなく、安い伏見の撞木町に通ったのではないかと推測します。
*なお、確認していませんが、一力亭の前身は撞木町の「萬屋」といわれています。

まあ、どっちでもいいけど「忠臣蔵は歌舞伎の話


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Posted by 西日本技術の環境調査員 at 07:28 │Comments( 0 ) 京都
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