2009年04月11日
京都河原町通の由来
京都市内の南北を結ぶ道路のうち、2トップは烏丸通と河原町通。
しかし、意外と知られていないのが「河原町通」の名前の由来。
いつもの徘徊では見逃してしまう、五条大橋西を少し南に下がった高瀬川沿い五条楽園の入り口の立て看板。
烏丸通は平安京の烏丸小路。明治の東京遷都後、京都駅が誕生し三大事業の一つである街路拡幅によって大きな通りとなりました。したがって、新しい道路。
豊臣秀吉の京都大改造で、洛中を守る砦のような御土居が築かれましたが、御土居もまた寺町通の裏に築かれていました。したがって、河原町通は秀吉の時代以降に開かれた新しい通りです。
<立て看板>
立て看板に書かれていることをまとめます。
「源 融(みなもと とおる) 河原院跡」
源融は、嵯峨天皇の皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと言われた人。源融が隠棲にした「河原院」の名前から河原町という通り名が生まれたと書かれています。鴨川の中央あたりから西は柳馬場、五条から南、正面通あたりまでの大邸宅があったようです。
なお、嵯峨野にある清涼寺に源融をモデルにした少し太めの仏像があります。
源氏物語の第一部最終章「藤裏葉(ふじうらは)」では冷泉家・朱雀院が、この河原院を訪問するところが描かれているそうです。
なお、平成12年、この木は京都市「区民の誇りの木」となっています。
Posted by
西日本技術の環境調査員
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07:28
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京都